1982年頃、ステンドグラスアートスクール研究科の教室でマチスの切り紙の抽象作品をステンドグラスで表現する習作に取りかかっていました。

(マチス原画写本)

ステンドグラスアートスクール研究科

何故、マチスの作品を取り上げたかと申しますと大阪に居た頃、ジャズミュージシャンを題材にポスター画を多く描いていたからです。特にソニーロリンズを描いたポスターは、良い値段で売れてしまい、その快感が忘れられなかったのかもしれません。

(高校時代の手帳に描いたポスターの下絵)

高校時代の手帳に描いたポスターの下絵

マチスは、晩年の一連の切り紙作品を“ジャズ”と名付けています。たしか、若き日のマイルスデイヴィスの演奏をパリで聴いた際にその即興演奏から生まれる旋律と自ら手掛ける切り紙が同様のものに感じ、その若いミュージシャンに触発されたと記憶しています。1949年頃のCrowd Jam Paris JAZZ Festivalだと思います。

まず、マチスの作品をガラスで表現するときに難しいことは、黄色の下地に黒、若しくは(習作ではグリーン)青が置かれていることです。この場合、あくまでも黄色は主題ではありませんが最も光の通りやすい黄色(フォグランプの色味)が背景にあることです。黒は申すまでもなく光を通しませんので、黄色の上に黒を乗せると穴が空いたように見えて背景が逆転して主張します。グリーンも同じで、黄色に比べて光の透過率が極端に落ちグリーンは影になります。このコントラストを原画通り、マチスが意図した通りに表現するのは至難の業と思われました。

これらを克服しなければ、将来のステンドグラス制作者としての生業は成り立ちません。毎日、ガラスをグリザイユ(酸化鉄の顔料)で調整しながら悩むうちに原画の中に描かれている鉛筆で引いたような線描が表現出来ないことに気が付きました。何だ、この線は! コリンスキー(てん)の筆を使った線描を施すと、これまで悩んできた黄や青や他の色の領域が台無しになることが解りました。

(描きあがった細い線描部分)

描きあがった細い線描部分

やはり、マチスは天才か!と思わずにいられない悶々とした数日が過ぎ、これは先生方に聞くしかないと思い、今野満利子先生に「このマチスの線はステンドグラスで表現出来るものですか」と質問しました。先生の答えは「私は解らないから、ヴァンスに行って来たら!その帰りにパリのジロー教授に会えば良いよ。孫弟子でしょ」と・・・。

フランス行きの先立つ持ち合わせも無く、研究科の講師である先生に聞きましたら、「ステンドグラスツアーを予定しているのでそこにヴァンスを入れてあげるから参加しなさい」との返答。貧乏な修行生のフランス旅行・・・?
結局、近畿日本ツーリストの営業その氏と会うことになり、旅費は月賦の後払いで話がまとまりました。

いよいよ、ヴァンスのロザリオの礼拝堂を目差して旅立つ日は、アルバイト先の工房の仕事で池袋のレストラン天井へのステンドグラスの取付作業が入っていました。早朝から現場に入り、足場での必死の作業を終え工具類は同僚に預けて作業着のまま成田空港に直行しました。集まった人達は、観光目的であり綺麗な洋服を身につけていました。夜の出発便に搭乗して夕食を食べると眠りに入り、目覚めはアンカレッジでした。

アンカレッジ
ヴァンス

僕には観光気分は全くなくフランスに着いたら、一人で歩き回るので皆さんに迷惑を掛けるだろうなぁ、と思いながらの旅の始まりでした。

ニースから、目指すヴァンスのロザリオ教会の坂を上っていますとアメリカ人の観光客がぞろぞろ下って来るのとすれ違い、彼等は揃って「今日は、シスターの機嫌が悪く礼拝堂には入れないよ」と言います。“俺は絶対に屈せず目的を遂げる”と思いますが、同行の先生も「ダメかも知れない」とのこと。

マチス
マチス

しかし、インターホン越しに若いシスターが応答してくれました。何と「少しだけどうぞ」との返答。外観は何ともシンプルですが、中に入るとこれまでに経験したことのない軽やかな空間でした。“何を思い悩んでるの、もっと楽な気持ちになりなさい”とマチスに囁かれているようでした。

ヴァンス教会のタイル

暫くすると年老いたシスターが現れました。僕は“きっと、この人はマチス本人を知っている”と直感しました。彼女の口から「ポールボニー」と僕の耳に聞こえた時は鳥肌がたちました。このヴァンス教会のステンドグラス制作に携わった名職人の名前です。シスターは、ポールのお弟子さんが取付の時にステンドグラスを落とした話をしてくれました。一枚割れてしまったが、車椅子に座ったマチスは「気にするな、作り直せば良いことだよ。なぁ、ポール!と言って笑っていましたよ」というエピソードを聞かせてくれました。シスターは、「下のニースにマチスの資料館があるから是非、行くように」とも言ってくれました。何とも、ニコニコ笑顔の年老いたシスターにお礼を述べて資料館に向かいました。

資料館には、教会への登り道ですれ違ったアメリカ人達が居ました。会釈だけしましたが、奥の方にいるお爺さんが手招きをしてくれました。近づくと、奥の部屋に通され「どうぞ!」とドサッとA2程の紙の束を僕の目の前に置いてくれました。直ぐにマチスのヴァンス教会のタイル画の下絵だと解りました。

(シャガール)

「手を触れても良いですか」と手真似をしますと「OK!」。教会の壁面に描かれていた聖書を持った聖職者の姿とその聖書を持った手の位置取りを何度も修正したマチスの鉛筆デッサンです。優に100枚を越える束です。この時、一枚一枚に手を触れてめくる自分の身体全部が写真機になっていることに気が付いていましたが、指は震えていました。そのお爺さんは館長だったと思いますが「日本人でこれを見た人は随分以前に一人くらいだよ」と言ってニコニコしていました。
(シャガール)

(レジェ)

マチスは“デッサンの天才であり、その場の思いつきで簡単に描く”といろいろな本に書いています。しかし、その天才の影には膨大な下描きがあることを実際にこの目で見ると、評論家の言動を信じると馬鹿を見ることに思えました。多分、シスターから館長に連絡があったのだと思います。そして、この旅費を月賦払いにしてくれた営業マンにも感謝して、涙が出てきました。
その後は、シャガール美術館のステンドグラスを鑑賞し、シャガールが暮らしていたサンポールドバンスの町にも立ち寄りました。レジェのダルドベールの窓も見ることが出来ました。
(レジェ)

そして、いよいよパリでジロー教授を尋ねる日が来ました。教授は背格好も笑顔も殆ど僕とそっくりな方で、初対面には思えませんでした。ヴァンスでシスターから聞いたポールボニー氏のこともご存じでした。先ずは、先生が25ミリ厚のダルドベールを簡単にカットする動作を見てゾッとしました。
(俺は、まだまだやなぁ! 何処まで奥が深いのか・・・)※追

そして、「先生、このマチスの鉛筆の線の描き方を・・・」と、・・・先生はニコニコしながらポケットからインクペンを出してすらすらとガラスに描いて見せました・・・質問し終わる前に、自らの手の動きを教えてくださいました。

マチスにもジロー教授にもステンドグラスの世界に完璧に迎え入れられたような気持ちになり、心の内が高揚するのがジンジンと身体に感じました。

(右が教授、左は美人過ぎる生徒)

右が教授、左は美人過ぎる生徒

そうなると安心感と充実感から遠慮していた虫が這いだし、お昼のステンドグラスの光はさておき、その日は地下鉄に乗って中世の光が漂う夜のサンドニの居酒屋で一人、手酌でパリの町を満悦していました。

ステンドグラスの光
’08川崎ガラス展出品作

’08川崎ガラス展出品作

‘10川崎ガラス展出品

‘10川崎ガラス展出品

40年近く経った現在も、制作するときの下地は常にマチスです。12世紀、13世紀の古典技法を使う作業でも、やはりマチスが活きてきます。

ルソー

ルソー

マチス

マチス

同時期の加藤淳子の研究課題は、ルソーでした。このパネルの表現方法とマチスは全く異なるものですが、努力のたまもので良く仕上げていると思います。

※追
この頃は、まだステンドグラス2年生です。考えてみると、どうにもならない青二才でした。

中学生、高校生時代の頃には部活に忙しい反面、時間を作って絵を描いていました。いつも秋になると文化勲章の発表があり、70歳を過ぎた老作家がテレビの受賞インタビューを受けて「明日からもいつも通り精進です。まだまだやることがいっぱいあるので特に感激とまでは・・・」という受け答えをされていました。

僕は、この老作家の先生方は“日本の若者に精進することを厭わない精神気質を植え付けるために無理に言っておられる”と思っていました。その頃、まさか自分が将来この先生方と一緒に仕事をする機会が来るとは思ってもいません。
それが、ヴァンス行の5年後の1987年に熱海市立 澤田政廣記念館 のステンドグラス制作に携わる依頼が今野先生より伝えられました。

まさか、文化勲章受賞者の彫刻家のアトリエを訪問する自分が、現実に居るのかどうかはっきりしませんでした。制作はもちろん今野先生のご教示があってのことですが、澤田先生のアトリエでは92歳の老先生から「僕は絵が下手くそでねぇ。君、そう思うでしょ!」、僕は「いえ、とんでもございません」、先生「なに言ってんの、顔に書いてあるよ。この年齢になると天人だよ」、そんな会話をしながら仙人のような白髭をたくわえた先生と話しているときは夢のようでした。

その後、蒔絵の重要無形文化財保持者の田口義国先生のご自宅に先生の松ぼっくりの下絵を使わせていただき、ステンドグラスの制作をしました。

松ぼっくりの下絵

子供の頃にテレビで拝見した先生方の多くは他界されましたが、現在40年のキャリアを積んできた僕が思うことは、“キャリアって何だろう。まだまだ、覚えなければならないことがいっぱいあるのに・・・” 昨年制作したもの、一昨年に描いた原画は今年になると貧弱に見えてきます。他界された先生方が仰っていたことは、ただ素直に現実を表現されていただけであったことに気づくこの頃です。しかし、日本の美術界の大家とお会いでき、またその先生方と一緒に仕事が出来たことは文章では表現出来ない財産になっていると思います。
合掌